日英友親交会について

日英友親交会促進の目的と説明についての主文


日英友親交会は、幕末明治時代における日英関係についての歴史的原点に基づいて、下述の交流活動を亢進する目的と意義があります。

交流項目の内容と致しましては、下記の通りになります。

(1)スポーツやマーシャルアーツ等の交流 サッカー、ラグビー、テニス、ゴルフ、ヨット、ボート、モーターボート、ホッケー、カーレース、ゲートボール、ボーリング、チャンピオンボール、アーチェリー、フェンシング、ホースレース、ポロ・オートバイレース、スヌーカー、バドミントン、卓球、スクオッシュ、バレー、ネットボール、剣道、なぎなた、弓道、柔道、空手、合気道、などのマーシャルアーツ,パラリンピック等の交流

(2)観光旅行交流、留学や学術交流、演劇、舞踊、バレー、絵画、芸術、音楽,芸能、アニメ、食文化、燻製文化、英国式庭園活花と日本庭園活花、英国式紅茶茶道と日本式茶道などの交流。

(3)ボーイスカウト、ガールスカウト、英連合王国にある慈善活動団体の交流。(この場合のあらゆる団体には、名誉総裁として女王以下、英国貴族が絡んでいます。)

(4)産業技術工業界、経済界と政界の交流、及びロイヤル外交の交流。

(5)防衛庁海上自衛隊、航空自衛隊、及び海上保安庁と英連合王国側のカウンターパートによる交流。

戦後歴史教育の空洞化で、日本国の近代化の歴史の原点が忘れられようとしておりますが、英連邦王国は 英語圏国の祖先国として、コモンウエルス(Commonwealth)宗主国、または時にして総帥としても重要な主軸国であります。

またEECに対するEFTA(スイス北欧等7ヶ国)の中心でもありましたが、英連邦王国自体がEUに加盟してからは、形態が変わっています。しかしスイスはいまだにEUへは加盟していません。

英国は、世界第二次大戦まで全世界に植民地を有しておりました。しかし戦後そのほとんどの国を独立させてきたものの、歴史的に政経システムにおいては、英語という国際共通語(英国語=公用語)の世界浸透普及という点と、もう一つは世界の航海法航空法を押さえることになるロンドン・グリニッジ天文台を時間軸の基点と決めたことです。英国が地球を24分割し東西経度と南北緯度を定めてきたことなどから、英連邦王国の法体系を採用させました。そしてその影響力は現在も染みついています。

それに宝石貴金属鉱物資源を午前と午後の世界相場によってロンドンにて建てており、世界金融や元締め保険はその連動により動いています。

幕末から明治時代にかけて、いかに多くの近代文明を日本が英連邦王国から吸収してきたかという事例は枚挙に遑(いとま)がありません。

それは現代の日本国および日本国民が当たり前に享受している政財経金融・教育・労働組合・警察・消防・郵便・介護・赤十字・医療社会制度・議会制度、国家防衛システム、哲学・スポーツ・文学・演劇・音楽、更に背広・制服・結婚衣装式服礼などが、国民生活様式の中にあまりにも浸透し過ぎていて、現代の日本人自体、それらのほとんど全てが約150年前に「英国から日本に移入」されてきたものである事には気が付いていないのが現実です。

四海八方が海洋孤島国である「ジャパン」は、英連邦島王国と地理的環境条件が極めて酷似しています。 結婚衣装もウエデイングマーチ(結婚行進曲)もウェディングケーキなども、幕末明治開化時代にもっとも親日的であったビクトリヤ女王のアルバート公との結婚式で、世界で初めて使用されたものに起因します。 サラリーマンの制服である背広も、元はロンドンの仕立屋街サビルロー(Saville Row) 通りの音名が、日本語によって漢字化された当て字であり、日本国歌”君が代”の最初の原曲作曲者は、ビクトリヤ女王陛下がいるバッキンガム宮殿の護衛兵軍楽隊長で日本に派遣されて来日していました。 その英国人の軍楽隊指導教官が指導していた最初の楽団が、薩摩藩で結成されて来ていた琵琶法師楽団でした。最初は琵琶琴と洋楽が合わず、日英相互間の音楽習慣による間隔の相違により、互いに滑稽節で苦労したようです。元来、欧米軍楽団には勇壮な金属管楽器が使用されるべきものですが、その習慣を知らない日本側は琵琶(琴)演奏集団をむけるしかなかったのでした。その英国人軍楽隊指導官は、夫婦で訪日滞在した後に親日家になり、現在も夫婦ともに横浜にある外人墓地に眠っています。

日本人の生活に身近なものでいいますと、カレー粉、ソース、紅茶、カスタード、ヨークシャープリ、ウイスキー、ジン、アイスクリーム、アイスクリーム、シチュー、ラムネ(レモネード)、カルピスの原型等も英国人が日本に持ち込んで来たものです。 カレー粉は、東インド会社時代にインド人主婦が作るカレーの料理法がすり鉢で一日中かかることから、普段流石に辛抱強く気長の英国紳士も業を煮やして、インスタントに料理できるカレー粉を発明しました。それは開発製造会社名のブランドでCBカレーといいました。これを日本で模倣したのがSBカレーです。

次にソースですが、英国のウスター・ソースを真似して製造したのが、ブルドッグ・ソースですが、戦前戦後の或る時期まで、日本ではカレーを食する際に必ずこのちょっぴり辛めの英国ソースをかけて食する習慣がありました。

紅茶も英国人の発明品で東インド会社がスリランカのセイロンやインドのアッサム、ダージリン地方や中国の港から緑茶の葉を詰めた麻袋を帆船に搭載して、その頃まだスエズ運河(特注:スエズ運河は、はるか後年の1869年『明治2年』にフランス人運河掘削技師レセップスにより開通したもので、ほどなく英国政治史上初のユダヤ系首相デイスレイリが一晩で英国ロスチャイルド家の金融を得て、ほぼ全運河株をトルコの総督から買収してビクトリヤ女王陛下に献上したのです。その時からスエズ運河は英国所有下になった経緯がある。)などがない時代であったので、その頃はインド洋から帆船で赤道を経た後に南下航行し、アフリカ大陸南端の喜望峰CAPE TOWN 近隣の岬(THE CAPE OF GOOD HOPE) を迂回してから、アフリカ西海岸沖の大西洋を北上して、やっと英国島南端の入港玄関口サウスハンプトン港等に至るという長旅を避けられなかったのです。 このようにして、はるばる海路上を運搬して来た緑茶の葉は、赤道通過の際に熱気に蒸れてしまい、英国に着いて開封して見たらたら緑色から茶色に変色していて、液体の色が紅茶に変わっていたのです。ところが、蒸れた茶も砂糖やミルクやレモンを加えて飲めば、結構美味であるとして煎茶業が始まりました。そしてそれを植民地に逆送して、英国紅茶として世界中に流行らせてしまったのが、英国人であり、羊毛やカシミヤや綿花原料を海外から仕入れて、更に仕上げ加工を行うことで洗練された高級に製品化して、さらに付加価値をつけて再輸出するといういわゆる「加工貿易」の先駆者となっていったのです。

最後に付言しておかねばならないのは、英国マンチェスターが起源である水車水力活用から、蒸気機関の発明によって世界にエネルギー革命を齎(もた)らしたことが日本への影響は大きいのです。 明治5年日本国初の鉄道が新橋横浜間に開通し、そのレール上を走らせた英国リバプール製の蒸気機関車”弁慶号”を皮ぎりにして、英国製の繊維機械や産業機械などに代表される、先端工業技術が英連邦王国から日本国に齎(もた)られたことは、後年の日本国の先進工業技術立国化への道しるべを示し、促進を促すモチベーションを与えました。その功績は実に大きいといえます。もともと西洋でも英連邦王国の民は産業革命時代にもその兆候が顕著でありましたが、熱心な機械的物作りの匠であるメカ職人発明家が多く輩出した島国でもあり、その点では日本国と極めて共通性があります。豊田佐吉翁、本田宗一郎翁は、カートライトやジェームズワット、スティーブンソン親子、ロールスロイスのロールスに匹敵する類似性が見られます。日本の総合商社も英国の東インド会社をモデルにしてきたと言えないこともありません。 今一度、日英関係史の原点に回帰して、温故知新で歴史を見直す事が、今後の日本国のありかたを探る上で、大きなヒントになると確信致しております。

その意味でこの日英友親交会促進運動は、今最も重要な課題であるといえるでしょう。

次に日英友親交の歴史について、お話しさせて頂きます。

幕末明治維新までの日英間航路は、日本の港からイングランド島南端のサウスハンプトンの港町(SOUTHAMPTON・Port City)に到着し上陸し、そしてロンドン各地に向かいました。 

サウスハンプトンの港町は、幕末の日本からの留学生団体を迎える玄関口でした。  薩摩のみならず、長州藩からの留学生達も皆ここに上陸し,ここを通過して、英国に留学しました。

伊藤博文 井上馨 そして長州ファイブも渡英しました。

去年2015年が、1865年初の組織化された留学生団体がサウスハンプトンの港に上陸しましてから150周年記念年です。

ここで更に注目せねばならない事があります。

ここサウスハンプトンから日本に来た英国人の数が圧倒的に多い。そしてここから日本へ運ばれて来た英国産業革命のおびただしい荷物貨物です。

その中には,蒸気機関車,蒸気船、棉紡績機械、発電機、鉄砲,大砲、煉瓦,ブリキ、灯台レンズ設備、通信機器、あらゆる日本が近代国家に生まれ変わるのに必要不可欠の機器類と素材と文化と近代化制度とお雇い指導者英国人の人材や教育書物や洋服や食材などがありました。

私は吉田松陰先生が、米国船での密航に失敗して斬首されたのを、大変に残念に思っています。  あのとき吉田松陰先生が渡航に成功して居たら、日本の歴史はもっともっと速く変わっていたはずです。

とにかく日本近代化にむかったのは団体組織留学で英国に渡航した先人のお蔭です。画期的な組織的決断でした。

その歴史の原点を、現代の日本人達は知ってるようで知らない方が多いし、このまま行けば次世代はこういう歴史を知らぬままで終わってしまいそうです。

これらの往年の留学生の先人達が,英国留学中お世話になった先生がたや寄宿先の家族や関係者の子孫遺族達が英国に居ます。

  それらの人々を辿って日本との関係を再興して修好を改めて温めるのが、現代の私たちの義務と使命であるし、これが真の外交であると存じます。

繰り返しますが、本件は姉妹都市関係協定の提案ではございませんので混同誤解されませぬように祈念いたします。

私達の国の先達が英国留学で得た教育知識を活かして、構築した近代日本国家国土社会の上に現代日本国民は、当たり前のようにそこに住み仕事に励み、子育てし、勉学をしたり、スポーツをしたり、遊んだり、生活を行っていてるわけです。

所が,第二次大戦太平洋戦争以後、八方四海海洋孤島国である日本は、国家の歴史開闢以来初の敗戦を経験し、意識的にも無意識的にも、過剰なコンプレックスの裏返し現象により歴史の原点を見失う方向へ歴史教育が流されてしまった現象を否めません。

私は軍国主義を鼓舞する側のものでは決してありません。

しかし本来国家の歴史教育と道徳教育は 精神教育と並び鼎立的と言うより 本来三位一体の調和がとれてしかるべきものでありますが、戦後の教育では これらが完全に分離して、それぞれが教科としてのアイデンティティーの影を薄め曖昧に霧散化させてしまった傾向が濃厚です。 

欧米その他では,国民がNATIONAL PRIDE(国家の誇り)とか、PATRIOTICISM(祖国愛)とか,HERO(ヒーロー)といういう言葉を、普段極くNATURAL≪自然に≫に用います。

ところが,日本ではこの言葉も聖域化傾向にあります。ことわっておきますが、HERO(ヒーロー)はいわゆるタレントの事では決してありません。

最近 私はハワイ真珠湾を訪れ、日本の終戦と最も関係の深い戦艦ミズーリ号上を訪れ、また1100名余りの艦船員が殉死された戦艦アリゾナ号沈没追悼海上パークに敬虔な慰霊の意を捧げて参りました。

戦争当時の惨禍のことは当然ながら、歴史をつぶさに見る事が大切と考えたからです。

米国は【トラトラトラ】【ヒロシマ】などを映画化し、ハワイを戦争追悼記念テーマパーク化し観光名所地にしていますが、国境を越えて歴史の原点を再点検する上では、やはりそれなりの意義があることだと思います。

ここで印象深い光景を目にしました。米国の若者たちが3人、被っていたハットをそっと頭から脱いで 目立たぬようにそっと海面に傾けていました。 そのハットの中にレイの花びらが,20枚ほど入っていて、それがぱらぱらとこぼれて行き、海面上の波間に浮かび漂っているのが,いまでも目について離れません。

いまの日本人の団塊世代や 若者で代でも,歴史の原点を素通りする戦後歴史教育を受けて来た人々が多く、ハワイまで観光に来ている方は多くいても、ここま気を遣う人はごくごく僅少であると思わざるを得ません。まして宇和島水産高校の練習船が、原子力潜水艦の急浮上で壊れて犠牲者が出た事件も,私の脳裏から離れませんでした。 

そして2014年3月には、クアラルンプール発北京空港行きマレーシヤ航空機が離陸してインド洋上で姿を消した事件,そして4月には修学旅行生約500名弱を乗せた珍島から済州島へ向かう韓国のクルーズ汽船SEWOL号沈没事件が発生しました。この汽船は18年間日本で使われ、一昨年韓国に売却されて、韓国で四層部分か五層部分を乗客増加用改造されてらしいという事で、これ偶然の重なりとはいえ,この連鎖には何とも不可思議な気持ちです。空神海神に祈る気持ちです。

ハワイといえば,もともとは英国人海洋探検家キャプテン・クックが発見した島で,以後三度ハワイを訪れて居て、三度目の訪問時に島内種族抗争に巻き込まれで、殺されてしましました。英国と米国はもともと密接な関係にあります・米国は英国の移民の開拓した国で、初代大統領ジョージ・ワシントンも英国移民藩主の子孫です。ハワイは英国の影響が最も強い島です。米国大陸に米国合衆国を建立したのは、英国からの移民達でした。

カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどもそうですが、中近東,アフリカ諸国、など英国を宗主国とする旧英国植民地圏国,中でもインドは英国は東インド会社を拠点にアジヤ豪州進出を果たし、中国の香港は英国が99年間の租借地権を有して、英国のシステムを植え付けて来ました。英語が世界共通語に進化したのは、この大航海時代の最後最大の覇者になったせいもありますが、国際条約規約、金融法、保険法,相場取引、時間の大元締めの原点グリニッジ、経度緯度、航海法,航空法、ゴルフ、サッカー、ラグビー、テニス、クリケット、水泳、ヨット、ボート、ホースレース、オリンピック、パラリンピック等のスポーツも含め,あらゆる分野の国際的ルールを定める中心になったのが英国です。

服装で言えば、結婚衣装から、礼服、式服、制服、そしてサラリーマン制服の背広まで、そして建築様式まで。

余談ですが、1890年(明治23年9月16日にオスマントルコ海軍軍艦エルトウールル号が和歌山県紀伊大島樫野崎沖合で、大嵐に遭遇し、遭難沈没事故が発生した際に、水兵乗組員656名中587人が犠牲になったこと、串本町民が必死で69名を救助した事が美談とされ、今でもトルコの学校では教科書で教え続けてきてるのです。 そのためトルコは今でも親日的です。これが外交の基本だと言う事を銘記する国民でありたいです。

日本は立憲君主国の英国を すべての手本として学び吸収してきた歴史があって、今の日本が出来あがって来ました。その歴史の原点を 今一度想起して戴き何らかの〖喉もと過ぎれば暑さ忘れっぽい風化性〗ではなく〖謝恩謝意のメッセージ〗を英国に贈ってしかるべきではないかと思のです。 

日本人が〖西欧文明に追いつき追い越せ〗のモットーの下で、いかに英(国)流様式を採用して来たかを改めて次に列挙してみます。

皇室制度・政治経済金融保険外交教育科学工業技術・自動車・灯台・メガネ橋・レンガ・インスタントカレー粉・ビスケット・アイスクリーム・シチュー・サッカ―・ラグビー・ゴルフ・テニス・ホッケー・カーリング・結婚衣装・結婚行進曲・ウエデイングケーキ・礼服・式服・背広・卒業式定番の音楽(蛍の光)など洋式音楽・アングリカン教会・ミッションスクール・郵便制度。

そして又クイズ 一番凄い影響力を与えたのが,何だと思われますか?

普段は皆さん気が付いておられないが、それは〖Time=時=時間〗です。グリニッジ天文台が世界の時間基軸点で、これを表がわで示しているのロンドンの国会議事堂横のビッグベン時計台、これは凄い。航海法,航空法の基になり、経度緯度が決められ、太陽暦カレンダーの元も時間の基点から決められている。この時間の基点がなかったら、人間社会はいかに不便である事か。 世界の人類は、英国基点の時間の連動の上で生活し、行動している。英国が時間の基点を押さえたって事は、実は大変な事。また英国は国際的ルールを創りだす事にかけては最も長けている国、それ故に英語が国際共通語になったのには歴史的理由があります。日本の近代化に最も影響を与えたのは英国で、そして次が米国。しかし米国は元英国の属国で英語圏国したから同類項です。

とにかく2015年は日英間に実質的絆が結ばれた1865年(慶応1年)から150年目なのです。

この年が日本近代化(欧化)元年です。

これを無視するてはない筈で、英国にメッセージを発信するのが礼儀であると感じております。

  1865年は日本にとっては 実質欧化元年=英化元年でもあります。さもなくば、永久風化元年になりかねない。そして〖老頽国〗か〖老耽国〗になりかねない。

戦後一時期日本のマスコミがこぞって英国の事を〖斜陽老体国(老大国)(老退国)(老頽国)〗の〖英国病(English Desease〗と酷評され、中にはそれで大宅賞なんか貰ってた評論家が居たりしました。その頃の日本は右肩上がりの意高度成長の絶頂期であった。その後バブルでブクブク太ったかに見えてから、アブク(気泡が)うたかたと消えて一変。萎えて失われた10年が20年になリ、今度は〖日本病(Japanese Deasease)〗になったのです。

しかし英国には マーガレット・サッチャーという偉大な政治家(ジャンヌ・ダルク)が彗星のごとく現れて、イギリスを大改造してしまったのです。北の海底からオイルも天然ガスも採掘されるようになったせいもあるが、しかし国家をこれだけドラスチックにドラマチックに変えた首相を戦後それまで見た事が無い。戦時中のスペンサー家出のチャーチルを越えるかも知れない。国家を変えてしまった事実は消えない。

今の日本国こそ,サッチャーリズム手法が必要とされる時ないと痛感します。 サッチャーさんは,昨年お亡くなりになってしまったが,私は偶然にその臨終の時間にロンドンのセントポール寺院に日本から来られたソーラ―発電の技術者専門家二人を,モンタギュ公爵を義父とするDENTONSという国際的大弁護士団会長ジェームズさんとの会議が終了した直後,〖一度はこの大寺院内を見学しておくべきですよ!!〗と半ば強引に連れて行きました。 

そしてホテルに帰った夕方、日本人のKさんが〖サッチャーさんが 今日お亡くなりになったニュースを、今部屋のテレビで観ました!! 何という不思議な事でしょう。時間的に北さんが、私達を半ば強引にロンドンのセントポール寺院へ連れて行ってくれた,あの時間帯ですよ。あそこで床の石畳の下に歴代の王の棺が安置されてる所を見学して居ましたが、その時にサッチャーさんが息を引き取ったのです。

北さんが,サッチャーさんと親しかったので、今日は引っ張られたとしか 思えません。〗と興奮気味に申しました。それだけではありませんでした。翌週国葬が行われる場所が、なんとなんとその日の午後に,無性に行きたい衝動にかられて、日本からの皆さんを引っ張って行ったロンドンのこのセンポール大寺院に決まったと言うのです。これには,私も呆気にとられてしまいました。私は生前のサッチャーさんには、何度もあちこちで、不思議な縁で結ばれていました。日本の宇都宮グランドホテルでもです。サッチャーさんは首相になる前の国会議員時代にも,私がヨークシャー州に納入した日産自動車の繊維機械が稼働中の織物工場を視察来ました。

その工場は私が創立し社長をしていた丸紅テクマテックス社が日産製機械エイジェントとして、初期にジェットルームという水噴射式織機を契約納入した所で、そこで織られたナイロン・ポリエステル化合繊布は表面にコーテイング加工してから、英国王立空軍(ROYAL AIRFORCE)のパラシュートに使われて居ました。又ヴァージン航空やバージン鉄道の創立者リチャード・ブランソン現会長がまだ事業家になる前、冒険野郎やってた若い頃、この布で飛行船バルーンを造り、英国から米国へ大西洋横断飛行しました,種子島から米国への太平洋横断飛行にも使われました。私は英国ウエールスのその飛行船製造工場を何度か訪れました。その風船工場の壁面一面にリチャード・ブランソンの航空服姿や飛行船の写真が一杯飾ってありました。

そんな事で,私はマーガレット・サッチャーさんが日産自動車英国工場建設招致運動の時も,工場建設候補地探し調査や、また英国工場で製造した車のカーシート用布の日本の日産工場への売込み斡旋もお手伝いをしました。これは日産のならず,ホンダ,トヨタ、スズキなど日本のカーメーカーへも、サッチャーさんの任命した英国繊維協会長アラン・ナイチンゲール氏の依頼もあって斡旋運動もしました。 そしてついに日産英国自動車英国工場が完成し,サッチャー首相が工場開所式のテープカットしました。

その後,ニッサンはフランスのルノー社の傘下に入り、カルロス・ゴーン社長が、日産ジャパンに来て、繊維機械部門は,長らく以前から日産の繊維機械部門を欲しがっていたトヨタグループ発祥母体会社、愛知県刈谷市の豊田自動織機製作所に譲渡されました。丸紅テクマテックス社は、創立の最初から豊田の紡績機械のエイジェントでもありましたので,この間の事情もよく承知して居ました。

そして トヨタ自動車も英国のダービー市に自動車工場を建設しました。 サッチャー首相時代に日系工場が続々と英国に進出しました。サッチャー首相自ら,日本に何度も飛んで、日本の工場を訪問し、ヘルメット被って工場内を視察しながら、あの凄いエネルギーの源は何か??英国工場進出を熱をこめて呼びかけて歩きました。

サッチャー首相が英国の地方特区への工場建設招聘のノウハウを私は、体験で学ぶ事に真ります。私は英国地方工業開発協会顧問に任命されたために.つぶさに見るだけでなく実際に手がけさせられる貴重な体験を重ねました。あのサッチャーさんのノウハウは、絶対に日本にも活かせると、私は思いました。あのころは、立場は逆で、日本から英国の特区へでしたが、今度は英欧米やアジヤなどの海外から日本の特区へですが、方向は逆転しても、基本原理は同じです。サッチャリズム手法は現今の日本で、最も必要かつ有効法と確信します。

日本の皆さんの地域の幕末明治時代の郷土史や旧制中学高校の記録をちょっとお調べ戴けますなら、必ず英国ないし英国人の関わりがあった事象が見つかるであろうと存じます。それに対しての歴史的謝意を贈り届けたいと考えております。御協力いただければ幸いであります。ここでその最たる一例のクイズを差し上げますが、

『日本の国歌の 【君が代】の作曲者は誰でしょうか?』 という質問に即回答できる日本人は果たして何人いるでしょうか?

それは英国人軍楽隊長ジョン・ウイリアム・フェントンの作曲である事を知ってる日本人は果たして日本人口の中に何%いるでしょうか? 

彼は歌詞を古今和歌集からとり、最初のバージョンの作曲をしたが、最初琵琶音楽と合わず後程ドイツ人フランツ・エッケルトが編曲をして今日の【君が代】になっている。当時の英国のビクトリヤ女王の嫡男皇太子エジンバラ公が訪日するに際して国家に国歌がが必要な事を説いたのはフェントンであります。

最後に申し上げたい事がございます。 明治5年≪1972≫新橋・横浜間に開通した日本最初の鉄道び使用された蒸気機関車は,イギリス・リバプール・マンチェスター工場にて製造されたものです。今度イギリスには日本製新幹線列車が走る事が決りました。先進国向け初の第一次契約6000億円相当の契約を日立が結びました。これを【温故知新】 【出藍の誉れ】といいますが、今後世界の他国に及ぼす波及効果と影響力は多大であります。

かつて世界産業革命発祥地のマンチェスターがリバプールとの間に、世界初の鉄道を開通したのは1830年9月15日であり、この鉄道に初乗りした日本人は誰でしょうか?この回答は、私も長らく調べて参りましたが、ワシントンに岩倉具視使節団に会いに行く時に、往復乗った私の先祖は1868年以降ですから。その前にいたはずです。私は歴史的考証から四者の候補を考えたのですが、いまだ確証が掴めていません。その中の一人は,英国人貴族の妻になった日本人女性です。

今一人は英国人興行師により幕末、英国から米国に渡った独楽傘回し、皿回しの日本人曲芸師です。もう二人は武士です。しかしもっと意外性がある日本人が居た可能性があります。

繰り返しますが、伝える相手はまず私たちの先人達が渡英してお世話になった先生や,ホームステイ寄宿先の家族の人々の子孫末裔であり、上陸した港湾市であり、学んだ市町村であり学校であり、工房や工場でありそこの藩主貴族であり、中央政府であり 王室であります。

これは外交上両国にとって重要な意義があり、今すぐではなくても、やがては 科学技術教育芸術文化スポーツ交流、旅行者交流に繋がる可能性があります。なにしろ 150年の歴史の裏づけがあり過ぎるくらい豊富にありますから。 

明治大正の頃日本の中央と地方の旧制の中学校高等学校には、かなり多くの英国人教師が来て教鞭をとっていた記録があります。それに次ぐのが米国人教師です。是非調べてみて下さい。

今回多くの祝2015年向けの【英国への謝恩謝意のメッセージ】をペンフレンドクラブ方式のメールで【日英友親交会】宛に送っておいて戴ければ幸いです。できるだけ英語で戴ければ一番良いのですが、日本語でも結構です。これで英国人の対日好感度は倍々増しますと確信します。

本年中にこのようなメッセージを出来る限り集めて置き、来年日本人の歴史的感謝の声としてしかるべき英国の機関団体に届けます。幕末明治維新以降の日本のあらゆる都道府県市町村で、英国及び英国人が関わっていた記録を発掘して、それ挿入した感謝状のようなものを送って下さい。英国だけでなく米国人が関わっているものでも結構です。

できるだけ知人友人に声をかけて集めて戴ければ幸いです。 

1865年(慶応元年)は,日英関係の黎明元年と言える年でありまして、2015年が丁度150周年にあたりますが、その理由と歴史的背景につきましては、添付資料の中で説明しておりますので,御参照賜れますなら幸甚に存じます。

私の愛読書の一冊は『日本人はなぜ 日本のことを知らないのか』(竹田恒泰著、PHP新書755)でありますが、私は総合商社丸紅駐在員として長らくエリザベス2世治下の英連合王国に在住し、機械貿易の仕事に従事して来て同時に文化親善交流事業、教育交流事業やチャリテイー事業にも長年関係して参りました。

私が英連合王国(UNITED KINGDOM=UK)に住居を構えて以来、この西の孤島国の首班の歴史的変遷をずーっと見て来ました。労働党ウイルソン、カラハン そして保守党ヒース,サッチャー,メイジャー、労働党ブレイヤー、ブラウン,又保守党にもどって現カメロン首相であります。この歴代首相の中でもっとも忘れられないのは、マーがレット・サッチャー首相であります。私はサッチャー首相とは、公私にわたり不思議な接点がありました。 首相は変わりましたが、エリザベス二世女王は在位のままで今日に至っています。ちなみにエリザベス二世女王1926年4月21日生まれで、ジョージ六世の長女で次女が故マーガレット王女でした。 エリザベス二世女王が即位されたのは1952年(昭和27年)でした。つまり1945年8月6日に広島に原爆投下され,8月9日には長崎に原爆投下されて、同年8月15日(昭和20年)に日本国はポツダム宣言を受入れ、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終焉の日を迎えましたから、終戦後7年目に戴冠されたのです。 戦後の日本の建国歴史教育の欠陥ともいえる不整備不整然状態の放置放任状態が看過され続け、当時を知らない世代の日本人世代には、この当時の敗戦国日本の状況を理解する事は至難の業になっています。

1952年ロンドンのウエストミンスター寺院で行わてた戴冠式当日のニュースを映画館にて36ミリ白黒フィルムでスクリーンに投影、私は小学生の子供の頃に見た事を鮮明に記憶しています。そこに参列した外国からの賓客でできた長い列の寺院出入り口位置に立っておられたのは,当時の昭和天皇の御名代の明仁皇太子殿下,即ち現平成天皇陛下でした。敗戦直後の空襲爆撃で荒廃した日本国の微妙な御立場であったことが、私も子供心で身に滲みて分かりました。 2012年ロンドン・オリンピック・パラリンピックの直前にエリザベス二世女王の戴冠ダイヤモンド・ジュビリー60周年記念式典が行われました。 その直前に東大病院で心臓のバイパス手術を受けられたばかりの平成天皇陛下の御参加が大変懸念されていました。幸いにもその式典に皇后陛下とともにお見えになることが実現し、ウインザー城での大祝賀晩餐会の会場入り口前で、エリザベス二世女王と御挨拶のおことばを交わされてる姿をBBCのTVで拝見した時に,第二次世界大戦(太平洋戦争)後のひと区切りがついた空気が漂い、なにかほっとした雰囲気を感じたのを覚えています。

この時もさることながら、私は1966年から英連合王国に住んで、ロイヤル外交の意義、稀少性、そして有効性を度々感じて来ました。世界で王制をとっている国は、特に戦後は稀少化しましたが、王制のある国とない国を見比べてみると,前者の方が極めて有利有役な面があると思います。 なのと言ってもロイヤル外交が出来る国の方が有位で優位なのです。英連合王国の場合には王制というのは、最高の外交機関の役割を果たしていると思います。欧州のみならずインドユーラシヤ大陸に起きた建国の歴史を見ると、王制国家の成立と外交は車の両輪でした。また優れた王様は最高の外交官でもあったというケースも多々あります。幕末から明治時代にかけて、ビクトリヤ女王と明治天皇との間に密接なロイヤル外交が行われていた事実を私はエリザベス二世女王家に次ぐ欧州最高貴族「MONTAGU(モンタギュー)公爵」と二十年以上親しく接してるうちに学びました。

マーガレット・サッチャ―首相政権下では、私はたまたま日系企業英国工場進出のための英国政府DTI(DEPARTMENT OF TRADE & UBDYSREY=通商工業省)の出先機関である英連合王国地域工業開発協会の顧問として、日系企業誘致の御手伝いをして参りました。そのためにサッチャー首相が、戦後の英連合王国の国家社会政治経済教育外交の大改革をなし遂げる姿をつぶさに見て来ました。 その間また幕末明治時代、英連合王国島から、日本孤島国が、結婚衣装や式服礼服ビジネスマンの制服の背広など洋服から文明文化、教育、科学工業技術、繊維機械類の工作機械、蒸気機関車汽船、通信機器、灯台から煉瓦建材、建築様式、競馬の御前レース、警察、消防、郵便制度、ゴルフ、テニス、サッカーまでのありとあらゆる分野を英国島からすべて輸入し移し替えました。 しかし戦後行われた歴史教育に関する教科書の中には、建国史と同様にそういった事実に関するものはほとんど触れられておりません。ましてや歴史の原点となるとなおさらです。歴史というのは、人間達が絡み合い織りなしてきたドキュメンタリーの記録であり記述であります。特に国際外交の歴史には、自国の歴史があり、また他国もに歴史があって、双方の側の記録を突き合わせることが必要です。 ところが、たった100年から150年前の開国から始まっている日本国近代化の歴史ですら、部分的に切り貼りつけてモザイク模様のままです。その不整備のままに日本側から見た歴史観が一方的に表れるだけで、幕末から明治維新にかけて英連合王国に留学したり、滞在した日本人を肝心の英国側ではどのように遇したか、極東の果ての日本国をどのように見ていたかについては、断片的にしか伝わっていないのが現状です。日本ではまだ全くと言っていいくらい知られていない歴史的事柄も、英国側には記録してあったことを私は英国に長く在住してから、エリザベス二世女王に次ぐ欧州の最高位の高等貴族に接して親しくなってから教えて貰うまでは知りませんでした。

イソップ物語の『盲人たちが象に触れる』式で、脚や鼻や耳に触れてそれぞれが違う形状をイメージして話すと言うのに似ています。当時まだマスコミも発達していませんでしたので、ニュースの伝わり方が極端に不足していましたし、偏っていたという面もありました。また当時は特に横文字外国語の理解力の欠如も、日本側にはあったので全ての情報が一方通行であったというハンディーもありました。 そこで明治政府がとった欧化政策へのスピードアップ対策は、お雇い欧米人からの学問技術の伝習法、換言すれば吸収学習法でした。それでも完璧であったとは言い難いもので、情報の一方通行状態は続きました。逆に鎖国による閉塞感から目覚めた日本人達が、それまでの反動として欧米に渡航し西洋文明の吸収に対し貪欲になる傾向も見られましたが、それでもまだ先進的一部階級のみでした。

日本近代化の黎明期であった幕末から明治の時代にはロイヤル外交が行われていました。その頃に起こった英国と日本との歴史に関する英国側における歴史的事実を、もっと日本の教科書にも採りあげ、次世代にありのまま伝達して行くべきではないかと思います。私は英国に長く住み戦後の変遷を体験し、歴史的英日関係を英国側から観察することにより、反面広角度のバランス感覚が得られて、日本では知られていなかった歴史的事象の新発見も少なからずあったことも事実なのです。

冒頭に触れました【日英友親交会】につきましては、日本側のある地方市から姉妹都市関係の新たな呼び掛けという解釈をされてしまった過去がございましたので、ここで改めて訂正を申し入れております。 【日英友親交会】を従来における「外国1都市と1対1で結ぶ」「従来型の姉妹都市」のような仲良し関係を結ぶ事というように解釈されてしまっては、本来の真目的から逸脱してしまいます。もっと歴史的原点に戻ってマルチ・シティー・リレーションズ(Multi-Cities Relations)の新親善交流を目指してるものであります。 これにはまた別な方面筋からも、この運動は単なる市単位にとどまらず都道府県の理解と支持支援や民間企業の支援などもあって、現代では従来パターンである姉妹都市(1対1)関係とは全く異なった新型のマルチ国際交流システムがあってしかるべきだと言う御意見もございました。

そして幕末明治維新の日本近代化という再建国のエポックは、260年も続いた封建鎖国性制レジームからの脱却ないし解放という表現も可能です。 ここで明治憲法により信教の自由が認められ、アングリカン・チャーチ(英国国教)系のキリスト教が米国帰りの新島襄により広められました。群馬県安中に維新後日本第一号のプロテスタント系教会が、元安中藩主の系列であった襄によって開設されました。襄の夫人は元佐幕派筆頭の福島松平藩の鉄砲隊長山本覚馬の妹八重であり、本人も女だてらに鉄砲隊に所属して維新軍に発砲していたことがあったという数奇な運命があったが、後に襄と力を合わせて、同志社大学の前身となるミッション・スクールを開設することになりました。 一方、やはり東京にもにミッションスクールを設立することになった二例がある事にも触れておきますと、やはり米国帰りの津田梅子と同時期に米国に留学したことのある帰国子女で、陸軍大将大山巌の後妻になった捨松夫人の友情的側面援助により、資金繰りに窮して閉校が救済された経緯を持つ津田塾大学の前身となった津田女子英語学校があります。 さらに江戸幕府の旗本の家柄であった岡見彦三が米国留学から帰国してから創立した頌栄女学院があります。これもミッション系で、現在は英国の貴族モンタギュー公爵家御領地内の英国ウインチェスター大学と合弁した「頌栄ウインチェスターウーマンカレッジ」を運営しています。岡見彦三も米国留学あり、福沢諭吉に影響を与えてる事は【福翁自伝】の目次第5編目【大阪を去って江戸に行く】の冒頭を御参照ください。 私は岡見彦三(福沢諭吉は彦曹と誤記してるが、後に出版社が後版で彦三と訂正してる)の孫岡見清直氏と生前親密な友人関係であった。清直先輩は米国留学中アイルランド系米国人の大学後輩女性と結婚し、伯父が三井物産ニューヨーク支店長をしていたという理由からその会社に勤務していたが、突然真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦した直後、最後の交換船には乗らずに米国に残留してしまった。この人物は戦後に日本の復興を米国側から支援し、日本生まれの一世でありながら米国国務省の外交官になった惟一人の人物で、戦後三機のプロペラ機をハワイ、ウエーキ島経由で成田に一機ずつパイロットと共に運んで来て、その三機がもととなり日本航空が発足したり、ダグラス・マッカーサー日本占領軍総司令官の長男マッカーサージュニア大使が日本に赴任する際には、ケネディー大統領に任命されて、米国国務省派遣の領事として赴任し、後に米国務省からアイルランド共和国ダブリンヘアメリカ総領事として赴任しています。岡見家の先祖はリンカーン大統領時代の南北戦争に参加したただ一人の「日本人サムライ」であります。 戦後この人物の果たした役割は実に大きいですが、日本ではあまり知られていません。ですからこれからの日本の次世代の為に、その必要性を感じて私は伝記を綴り出版しました。

清直氏が生粋の旧敵国生まれの日本人一世であることが判明し、米国国務省所属外交官として就任する時に、米国の不文律慣習を盾に米国務省内で反対があったにもかかわらず、清直氏を領事として日本へ連れて行きたいと熱望したのが、ダグラス・マッカーサー日本占領軍総司令官の長男であるマッカーサージュニア大使だったのですが、米国務省内の反対を最終的に押し切り、その任命の決断を下したのがあの「ジョン・F・ケネディー大統領」自身で あったのです。何という運命の巡り合せでしょうか。 

更に2014年現バラク・オバマ大統領に駐日米国大使として,任命されたのが、あのテキサスのダラスで暗殺されてしまった「ジョン・F・ケネディー大統領」の長女です。ケネディー大統領の弟ロバート・ケネディーも司法長官で下が、彼も暗殺されてしまいましたが、私は(ボビーというのが弟のニックネーム)が暗殺された丁度その日、アイルランド共和国ダブリンからセブンブリッジという田舎町へ向けた長距離タクシーの中で居眠りしてました。そして、タクシーが変な揺れ方するので目覚めました。田舎道をタクシーが蛇行運転し、左右に揺れが続き危険を感じました。運転手に『一体どうしたんだ? 止めてくれ!!』と叫びました。運転手は『ボビーが死んだ!? ボビーも死んだ!? ボビーも殺られた !!』と両頬に泪をこぼして泣きながら酔っぱらったように左右に蛇行運転しています。 『一体どうしたんだ? 止めてくれ!!』 『具合が悪いのか? 止めてくれ!!』と叫びました。『今のカーラジオ放送を聴居てなかったのか? ボビーまでも殺られた !!!!』と運転手は叫び返しました。私は『ボビーって誰のこと?』 と訊き返しました。『ジョン・F・ケネディーの弟のボビーだ!!! あのロバートさ!!!』 っていうので、やっと事情が呑み込めた後に私も絶句しました。そして田舎道の脇のカソリック教会を見たらどこも半旗でした。 第一代米国大統領ジョージ・ワシントン以来、歴代の米国大統領は、アングリカン・チャーチ(英国国教徒)系が継承して来ましたが、ケネディー家の先祖はアメリカに移民前は、アイルランド共和国の出身でした。米国大統領史でカトリック教徒が大統領になったのは、ケネディーが後にも先にも初めてのケースだったと思います。そして上記の岡見清直大先輩の奥さんも御先祖が、アイルランド共和国からの移民の娘さんでした。また岡見清直さん自身も外交官経歴の最後には米国務省のアイルランド共和国総領事となりました。 在任中にはボクサーのモハメッド・アリとか往年の大スター・キム・ノバクとか様々著名人が岡見総領事のお世話になりました。理由はアイルランド訪問滞在中にパスポートを紛失したり、盗難にあったりして再発行が必要になり依頼をされたからで、その時総領事が直接面接して再発行したからです。そしてその謝礼にスター達からは特別サイン入り感謝状付写真を貰っていて、私に見せてくれました。又在任中ニクソン大統領やレーガン大統領もアイルランドを訪れてきて岡見総領事がアテンドしました。この大統領達の奥さんとかや親戚には先祖が元アイルランド系の移民で、公的訪問で来ているにも関わらず、私的に御先祖の墓参りをするというケースが多かったという事です。

さてロバートことボビー・ケネディーとの因縁話は、ここで終わったわけではありません。それから十数年後、私はワシントンの環境問題対策弁護士であるロバート・ケネディーの長男と奥さんと娘さん等一家が東京を訪れた際に、ちょうど私も英国から訪日していて、プライベート・晩餐会パーティーでお会いしました。著書にサインをして下さり、御家族と一緒に多くの写真を撮影しました。そして2014年4月オバマ大統領が訪日して安倍首相と会見中、横についてアテンドし随行したり同席してていたのは、かつてのジョン・F・ケネディー大統領の長女で、母親のジャクリーン・ケネディー夫人を彷彿させるそっくりな現英国大使の姿でした。何という「SMALL WORLD(世間は狭い)」なんだろうと、私は改めて感慨無量な気持ちになりました。 私は今年四月にハワイ真珠湾でミズーリ号、戦艦アリゾナ号の沈没記念海洋テーマパークを訪れて来ました。多くの犠牲者を出した太平洋戦争は、雨降って地固まった日米英関係は現在発展中です。

明治維新以後に明治憲法で信教の自由が認められてから、英国国教のキリスト教が広まりました。旧北イスラエル帝国がアッシリヤ帝国の侵入征服により崩壊したのが紀元前722年で、十種族は東方へ離散亡命したと言います。北イスラエル帝国滅亡後140年過ぎ、紀元前586年には2種族で形成されていたユダ王国もバビロン(今のイラク)王国に滅ぼされ、国民はバビロンに連れさられてまた奴隷にされたが、これを〖バビロンの幽閉〗とか〖バビロンの捕囚〗といわれています。残ったユダ族がユダヤ王国を創ったが、紀元70年に又々たローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人達は世界中に離散しました。それが第二次世界大戦終了の1945年から3年後の1948年に奇跡のイスラエル再建国を果たしています。それまで国土無き世界中を彷徨うユダヤ民族と言われて来ました。 再建国まで実に2000年余りを経て来ました。キリストも預言者と言われてますが、ユダヤ人であることには変わりありません。明治憲法は信教の自由で、キリスト教に基づく文明を受け入れたことになります。

冒頭に触れました【日英友親交会】につきましては、日本側のある地方市から姉妹都市関係の新たな呼び掛けという解釈をされてしまった過去がございましたので、ここで改めて訂正を申し入れております。 【日英友親交会】を従来における「外国1都市と1対1で結ぶ」「従来型の姉妹都市」のような仲良し関係を結ぶ事というように解釈されてしまっては、本来の真目的から逸脱してしまいます。もっと歴史的原点に戻ってマルチ・シティー・リレーションズ(Multi-Cities Relations)の新親善交流を目指してるものであります。 これにはまた別な方面筋からも、この運動は単なる市単位にとどまらず都道府県の理解と支持支援や民間企業の支援などもあって、現代では従来パターンである姉妹都市(1対1)関係とは全く異なった新型のマルチ国際交流システムがあってしかるべきだと言う御意見もございました。 【日英友親交会】の思想と主旨を御理解戴けますことを改めて切望いたします。そして歴史の原点に戻り【日英友親交会】の結成メンバー御加盟の御意志表明に御協力戴けますことを衷心より祈念しています。私はこの主旨で英連合王国側での対日対応に対する根回しも現在しておりますので、日本側からの呼応反応が是非必要になります。

2014年6月のカタール・ドーハにおけるUNESCOの会議で、日本国の群馬県富岡市の明治5年の官営富岡製糸工場が正式に世界遺産に認定されることが99%内定したことが判明しました。繊維機械の世界市場への売込みに青春をかけた時代を経験した私も、これを永らく望んで参りました。ここではフランスやイタリア製の機械を採用したかのように見えますが、実は英国産業革命の影響を最も受けていますし、英国の機械も多く採用されていました。生糸製品を最も日本から輸入していたのは英連合王国です。ですから群馬県上州の「TAKASAKI BRAND」の生糸が明治時代に英国マンチェスターにある生糸相場取引所で日々、相場取引が為されていた歴史的記録と痕跡を1968年に知りましたが、もうその時には取引所は閉鎖されていました。これが日本国近代化の礎になっていたあかしであったので、私が発見しました時私は欣喜雀躍しました。私にとっては、ここに日本の歴史の原点の一つがあったということが解り、歴史的大発見だと思い興奮した瞬間をいまでも思い出します。それは立派な古いビルの生糸相場取引所の見上げる天井下の壁面にかかった大きな黒板のような上に 白色で書かれたブランド名の名札がかかっていました。それは上州産のものと一目で分かるローマ字で原産地名が掲げられいました。ここで取引された日本産特に群馬県産生糸が更に染色加工され、生糸、生地、結婚衣装、当時のファッションドレス製品となって国内や海外に再輸出されていったのです。世界産業革命の発祥地メッカに、日本があったと知り感激してしまいました。

北  広次郎  UK

Yours faithfully,    Very best regards

Nori Kojiro Kita

Nkita Consulting(EU/UK/USA/ASIA/Middle-East)

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